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2005-08-27-01-殺生と業と罪

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最終更新日付:2013/12/31 07:40:36


殺生と業と罪

2005 年 08 月 27 日

せっかく出かけたのだが何も収穫を得られぬままバイクにまたがって帰宅する途中、ぼんやりと考えた。何故人を殺すことは罪なのだろう?

念のために言っておくと、別にそこに深刻に疑問を持っているわけではない。これはある種の判断止揚 ── フッサール現象学におけるエポケーのようなもの ── である。自明なことを敢えて疑問に付し、追い詰めてみるのだ。「それは確かに自明に思えるが、しかし何故か」と。

たとえば、人間は肉を食う。肉とは他の動物のことである。野生の動物を捕獲して殺すこともあれば、食べるためにわざわざ育ててから殺すこともある。人間はそうして生きているのだ。少しばかり脱線するが、動物を殺して食べるなんて残酷だといって野菜を食べる人たちがいるが、そういった人たちは野菜を始めとする植物もまた「生き物」であることを失念してしまっている。そうでなければ単にいい人ぶりたいだけなのだろう(無論、健康のためとか肉が嫌いだからという理由で菜食主義を実践している人たちについてとやかく言う気は全くない)。

話を戻す。人間に限らず、すべての生物は他の生物を生きる糧としている。植物は土から生きる糧を得るが、土は動植物の屍骸から構成されることを考えれば同様である。単に積極的に殺さないだけだ。あらゆる生物はそうやって生きている。仏教ではこのことを「業」というそうだ。生きていくために、生まれながらにして ── つまりアプリオリに ── 背負った罪という意味らしい。それゆえに人間は食べ物に感謝し、生きていることを重く受け止めねばならないのである。もっと無味乾燥な言い方をすればそれは生態系であり、食物連鎖である。

さて、人が人を殺すという点について。それを動物の世界にスライドさせて考えると、それはいわゆる「共食い」になると思われる。なぜなら、野生の動物は通常、食べるという目的以外で他の動物を殺したりしないからだ。では、普段から他の動物を獲物にして生きている動物が共食いをしたら、それはなにか格別な ── 先程の「業」とは別の ── 罪になると考えられるだろうか? 人間から見ると確かに共食いは残酷に見えるかもしれないが、所詮(という表現はよくないかもしれないが)業の範囲内であろう。共食いであれなんであれ、動物にとって殺生は食と生に直結している。

では、人が人を殺すことが特別な罪なのは、殺した後に食べないからか? だとするなら、殺した後に食べたら業の範囲内で済まされるのか? ここで飢餓状態におけるカニバリズムに思い至った人も多いだろう。あるいはハンニバル・レクター博士かもしれない。幸運なことに、ごく少数の例外を除いて人間は共食いをする本能(あるいは嗜好)は持ち合わせていないようなので、カニバリズムが発生するのはだいたいにおいて極限状態だけだ。そのような状況に関してはどちらかといえば同情的に見られることが多い。しかし、レクター博士のような人物に対して同じような同情的な見方をするのは少し違う。明らかに違う。しかし、何故違うのか? どこがどう違うのか?(同じだと主張したいのではない) さらに言うならば、対象が人間でなくても、食べもしないのに殺した場合はどうなる? それだってとても業の範囲内とは言えまい。だとしたら、食べる食べないに関わらず人間と他の動物で殺した場合の扱いが(法的、感情的、などいくつかの意味で)異なるのは何故なのだ?

結局、ここで「秩序」という人工的な概念を持ち込まざるを得なくなる...が、続きはまた別の機会に書こう(書かないかもしれない)。

 

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