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2007-03-16-01-未来を信じるということ、あるいはその根拠

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最終更新日付:2013/12/31 07:39:02


未来を信じるということ、あるいはその根拠

2007 年 03 月 16 日

私事ではあるが、陰郎は現在参加しているプロジェクトを3月末で離脱する。ちょうど契約の切れ目であり、こちら側には継続の意思がない。状況は絶望的で、自分としてはプロジェクトの未来を信じることができない。そう散々言っているにも関わらず、「困る、困る」と慰留なのか泣き落としなのかわからないような責め苦にあっているのがこの1ヶ月ほどの状況である。そんな中、とある偉い誰かさんから以下のような言葉を聞かされた。

「私はこのプロジェクトが成功すると信じているし、また成功させなければならない。」

なるほど、未来を信じて頑張るというのは立派なことだ。だが、それが「だからお前も同じように未来を信じて頑張ってくれ」という意味を込めて言っているのだとすれば、それは単なる交渉事に過ぎない。未来を信じられるかどうかというのは、極めて主観的な信念の問題のはずだ。信念というものには(通常は)根拠があるはずで、人にそれを信じさせようとするならば信念を語るのではいけない。その根拠を聞かせなければ意味が無いのだ。そして、そこから同じ結論に本人自身が到達できなければならない。なぜなら、信念というのは本人自身の誠実な思考によって到達した場合に限って価値を持つからだ。だから、上の言葉に対して返す言葉があるとすれば、「そうですか。成功をお祈りしています。」ということに尽きる。

問題は、何を信じたかではなく、何故信じたかだ。何を根拠に信じたかが問題なのだ。熱く語る言葉だけを鵜呑みにして傾くような人間は、上手くいかなかったときに「信じていたのに」などと悪態をつくのが関の山だろう。言葉だけで手に入るのはその程度である。それならば、そんな言葉に一体何の意味があるというのだろうか?

信じられない未来のために人生の一部を切り売りして生活の糧を得る。それもいいだろう。だが陰郎にとっては、それは人生に汚点を残すだけの行為だ。人生の終わりに際して彼岸に立ったとき、必ず後悔することになる。

そもそも言葉だけで翻意させられるなどと高を括られただけでも侮辱に値するが、しかし陰郎も安く見られたものである。そして時として、慰留が無駄とわかると手の平を返したように「無責任」という言葉を使って攻撃してくる性質の悪い手合いもいる。未来を信じられないままその場に居残ることの方が余程「無責任」だと思うのは陰郎だけだろうか。陰郎のような木っ端SEが一人消えただけで立ち行かなくなるような状況にしておくマネージメントは「無責任」とは言わないのだろうか。そして、そもそも「成功すると信じている」というその信念に根拠がないのだとしたら、「信じなければならないから信じている」だけだとしたら、それ故に言葉を投げつけることしかできないのだとしたら、そちらの方がはるかに重大な「無責任」ではないのか。陰郎はそのように思う。そしてそれ故に、陰郎はこの業界で生きていくのが窮屈なのだ。

 

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